映画「ナバロンの要塞」は1961年、J・リー・トンプソン監督、グレゴリー・ペック主演の作品です。
この「ナバロンの要塞」のネタバレやあらすじ、最後ラストの結末とその考察について紹介します。
以下、重大なネタバレや個人的な考察を含みますので、まだ鑑賞していない方はご注意ください。
映画「ナバロンの要塞」あらすじ
1943年、エーゲ海は独軍の制圧下にあり、ケロス島の英軍2000の生命は全滅の危機にあった。
英軍救出の試みは度々なされたが、途中に睨みをきかすナバロン島の断崖の洞窟に据えられた独軍の2門の大砲のため失敗していました。
しかし、ナバロン島の南の崖だけは400フィートのほぼ垂直の絶壁になっていて誰も登れないため、見張りの歩哨がいないとの情報が、地元レジスタンスから寄せられました。
そこでジェンセン准将は、少数の精鋭部隊で要塞に潜入し、直接爆破する作戦を計画します。
集められたのは、それぞれに際立った個性と能力を持つ六人でした。
天才的な登山家で、ギリシャ語とドイツ語ができるマロリー大尉(グレゴリー・ペック)。
北アフリカ戦線でエルヴィン・ロンメルの指揮所を「隣の孤児院のガラス一枚割らずに」爆破したが、昇進を断り続けるミラー伍長(デヴィッド・ニーヴン)。
ギリシャ軍の将校かつレジスタンス闘士のスタブロウ大佐(アンソニー・クイン)。
機械の専門家で無線連絡を担当するブラウン(スタンリー・ベイカー)。
父親がナバロン抵抗組織のリーダーで、殺しの達人パパディモス(ジェームズ・ダーレン)。
そして指揮官のフランクリン少佐(アンソニー・クエイル)です。
しかもジェンセン准将は「作戦は成功しないだろう。失うには惜しい連中だが、成功する望みもあるかもしれない」程度に考えていました。
「失敗するかもしれない」とわかりながら送り出される六人。
おんぼろ漁船に乗り、嵐のエーゲ海を越えて、垂直の絶壁へと向かいます。
映画「ナバロンの要塞」ネタバレ
以下、重大なネタバレを含みます。
絶壁と嵐と仲間の傷
漁師に変装した一行はナバロン島に向かいましたが、途中でドイツの哨戒艇に発見され切り抜けた後、激しい嵐にも見舞われました。
ようやく島の岸壁に辿り着き、マロリーを先頭に絶壁を登り始めましたが、リーダーのフランクリンが途中で負傷し、指揮はマロリーが引き継ぐことになります。
山頂の古城で、一行は二人の女性と出会います。
レジスタンスのマリア(イレーネ・パパス)と、過去にドイツ軍に捕まって拷問を受け、口がきけなくなったというアンナ(ジア・スカラ)でした。
仲間の中の「裏切り者」
マンドラコスの村でドイツ軍に全員が捕らえられるという最大の危機が訪れます。
しかしアンドレアの機転で何とか脱出します。
ここでマロリーは衝撃的な事実を悟ります——作戦の情報が漏れていた。仲間の中に密告者がいるということを。
爆薬が解除されていることをミラーが発見した後、マロリーは調査の結果、裏切り者がアンナだと断定します。
口がきけないはずのアンナが、密かに敵に情報を流していたのです——拷問に屈した彼女は、ドイツ側の協力者として仲間に潜んでいました。
そしてここで映画史上最も「道徳的に重い」場面が訪れます。
マリアが、自分の仲間であるアンナを銃で射殺するのです。
「島の人々のために」という冷酷な決断——マリアの表情が、その行為の重さを雄弁に物語ります。
フランクリンを「囮」にする計画
マロリーは皆に、フランクリンが尋問を受け、自白剤投与がされることまで計算し、敵が山で彼に吐いた嘘の作戦に振り回され、人員を割いた隙に要塞に侵入する計画を説明します。
それを聞いたミラーは、フランクリンに自白剤が使われなかった時の事を心配し、激しくマロリーを非難します。
その場合フランクリンは、厳しく拷問を受けるはずでした。
「仲間を囮に使うのか」——ミラーのマロリーへの非難は感情的であり、同時に倫理的でもありました。
マロリーは「それも計算の上だ」と答え、見張りに立つために姿を消します。
映画「ナバロンの要塞」ラスト最後の結末
警備が手薄になった要塞に、マロリーとミラーが侵入し、大砲まで辿り着いて爆薬を仕掛けます。
しかしミラーは大砲の爆弾が解除された場合を想定して、弾薬を運ぶエレベーターにも爆弾を仕掛けていました。
ドイツ軍は大砲の爆弾を除去し、艦隊への砲撃を開始します。
初弾、第2射は放たれましたが、第3射の時、エレベーターの爆弾が起爆し、爆薬もろとも大砲を吹き飛ばしました。
脅威のなくなった艦隊は、兵士を救出するためケロス島へ向かいました。
作戦は成功しました。しかし代償は大きかった。
スピロスは戦死し、ブラウンも命を落とし、フランクリンは捕虜として拷問を受けていた。
作戦が終了し、マリアは島を守るために戻ると言います。
アンドレアはマロリーに彼女と共に島へ残ると告げ、二人はそこで別れました。
ミラーは、燃え上がる要塞を見ながらマロリーに非礼を詫びます。
成功するとは思わなかったというミラーにマロリーも同意しました。
「成功するとは思わなかった」——この一言が、映画全体を貫く「問い」への最も正直な答えとして、夜空に響きます。
映画「ナバロンの要塞」の考察
この映画を「六人の男たちが難攻不落の要塞を爆破する痛快冒険映画」として見ると、一級の娯楽作品です。
しかし私はこの映画に、1961年というコールド・ウォーの時代が生み出した、もっと深い「倫理への問いかけ」があると思っています。
「ナバロンの要塞」は「いかに要塞を爆破するか」の映画ではなく、「英雄的行為が必然的に生み出す道徳的な代償」を、六人の男と二人の女の関係を通して執拗に問い続けた映画なのです。
「昇進を断り続けるミラー」という設定が示すもの
ミラー伍長はロンメルの指揮所を「隣の孤児院のガラス一枚割らずに」爆破したが、昇進を断り続ける男として描かれています。
この「昇進拒否」という設定は、単なるキャラクターの個性ではありません。映画が最初から観客に投げかける問いです。
「なぜ最も有能な爆破専門家が、昇進を拒み続けるのか」——その答えは映画を見るにつれて明らかになります。
ミラーは「自分がやっていることの重さ」を、誰よりも深く理解している男だったからです。
爆破の天才であることは、人を大量に殺す天才であることと同義です。
その事実を直視しながら戦争を続けているミラーにとって、昇進して「もっと大きな爆破」を担わされることは、自分の良心への挑戦でした。
「有能であることが、より多くの罪を重ねることに繋がる」——ミラーの昇進拒否は、この皮肉な真実への、静かな抵抗でした。
そしてだからこそ、フランクリンを囮に使うというマロリーの計画に、ミラーが最も激しく抵抗したのです。
「仲間を道具として使う」ことへの拒絶は、「爆弾を使って人を殺す」ことへの拒絶と同じ倫理の根から来ていたからです。
「マロリーとアンドレアの因縁」が映画全体の核心を担っていた
マロリーとアンドレアは険悪な関係でした。
アンドレアはマロリーのせいで家族を皆殺しにされたと恨んでいて、マロリーは戦争が終われば殺されるだろうと言います。
マロリーは「戦争に勝つには卑怯になるしかないが、敵より卑怯にはなりたくない」と零します。
この関係の設定が、この映画を単なるアクション映画から区別する最大の要素だと私は思います。
「仲間の家族を死なせた男」と「その男と協力しなければ任務が完遂できない男」——二人は互いへの怒りと憎しみを抱えたまま、絶壁を一緒に登り、同じ敵と戦います。
「共通の敵を前にした時、私怨は後回しにできる——しかし忘れることはできない」——この関係が映画全体に流れる低音として機能しており、アクションシーンの随所に「この二人の間で何かが起きるかもしれない」という緊張を与えています。
そして最終的にアンドレアはマロリーを許さずに、しかし共に任務を成し遂げます。
ラストでマロリーを見捨てず、溺れかけるアンドレアをマロリーが引き上げる場面は「和解」ではなく「人間と人間が互いを支える最低限の行為」として描かれています。
「許さなくても、助けることはできる」——この微妙な区別が、戦争映画としての「ナバロンの要塞」の最も成熟した部分です。
「マリアによるアンナ射殺」という場面が映画史に持つ意味
レジスタンスのマリアが仲間のアンナを撃つ場面は、1961年の映画として驚くべき「倫理的な重さ」を持っています。
アンナは悪人ではありませんでした。拷問を受けて、精神的に壊れた状態で、ドイツ側に引き込まれた女性です。
彼女を裁く「法廷」はなく、時間もなく、マリアが「島の人々のために」という判断だけで引き金を引きます。
映画は、この行為を「正しい」とも「間違っている」とも断言しません。
ただ、マリアの表情が「正しいことをしている人間の顔ではなく、正しくないとわかっていながらするしかなかった人間の顔」をしていることを、カメラは静かに記録します。
「戦争とは、無実の人間が無実の人間を殺すことを強いる仕組みだ」——この映画が最も痛切に示しているのは敵への憎しみではなく、この一点です。
アンナを殺したのはマリアですが、アンナをそういう立場に追い込んだのは戦争そのものでした。
そしてその戦争の「勝利」のために、マリアは引き金を引かなければならなかった。
「ジェンセン准将の無責任」という見落とされがちな告発
ジェンセン准将は「作戦は成功しないだろう。失うには惜しい連中だが、成功する望みもあるかもしれない」程度に考えていたと描写されています。
この台詞を、映画は笑えない形で提示しています。六人を「使い捨ての可能性を認識しながら」送り出した指揮官——しかし彼は司令部で安全に座っています。
「英雄を作る者と、英雄にさせられる者」の非対称——指揮官は「惜しい連中」と口では言いながら、「失っても構わない」と本心では思っています。
六人はその「計算の外」で、本物の命をかけて戦っています。
ラストで艦隊が高らかに汽笛を上げる場面——その音は「命を賭けて大砲を爆破した者たちへの称賛」として鳴り響きます。
しかしその汽笛の音は、港の安全な場所から届く音でもあります。
「称える者」と「称えられる者」の間にある「距離」——それが戦争における「英雄」という概念の、最も根本的な欺瞞です。
「成功するとは思わなかった」という最後の台詞が映画史上最も正直な結末だった
ラストシーン、ミラーがマロリーに「非礼を詫びる」場面でこの台詞が出てきます。
「成功するとは思わなかった」——これは謙遜でも自嘲でもなく、映画全体への最も正直な評価です。
六人は「成功すると信じて」動いていたのではありません。「やるしかないから」動いていた。
合理的に考えれば、この作戦の成功確率は極めて低い。ジェンセン准将も認めていました。
しかし「やるしかない」という状況に置かれた六人は、「信念」ではなく「義務」と「仲間への責任」で動いていたのです。
「英雄は信念で動くのではなく、状況と仲間への責任で動く」——この映画が示す「英雄の実像」は、勇敢でも崇高でもなく、ただ「やるしかなかった者たちの話」として、六十年後の今も色褪せません。
結論:「ナバロンの要塞」が「METAL GEAR」の父であり、現代のサバイバルゲームの原型だった理由
この作品はMETAL GEARシリーズに影響を与えた作品として挙げられており、崖を登って潜入する描写や敵施設への潜入、ドイツの敵施設の脅威となる兵器の破壊工作、敵将校への変装など、シリーズの様々な作品に影響を与えています。
なぜ「ナバロンの要塞」が何十年も後のゲームクリエイターに影響を与え続けたのか——それはこの映画の構造が「ゲームの本質的な楽しさ」と完全に一致しているからです。
明確な目標(大砲の爆破)、様々なスキルを持つプレイヤーキャラクター(六人のメンバー)、次々と立ちはだかる障害(嵐・捕虜・裏切り者・警備)、そして制限時間(駆逐艦の通過まで)——これはまさに現代のゲームの基本設計です。
しかしゲームと違う点が一つあります。
「死んだキャラクターは戻らない」そして「英雄的行為には必ず道徳的な代償が伴う」——この二点において、「ナバロンの要塞」はゲームを超えた「人間の物語」でした。
燃え上がる要塞を見つめながら「成功するとは思わなかった」と呟く二人の男の姿は、勝利の歌ではなく「生き延びてしまった者の沈黙」として、画面に刻まれています。
評価:★★★★★(5.0/5.0)
「英雄は信念で動くのではない。やるしかない状況で、やるしかないから動く——成功するとは思わなかったと呟いた二人の男は、その正直さにおいて映画史上最も誠実な英雄だった。」
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