映画「シャイアン」は1964年、ジョン・フォード監督、リチャード・ウィドマーク主演の作品です。
この「シャイアン」のネタバレやあらすじ、最後ラストの結末とその考察について紹介します。
以下、重大なネタバレや個人的な考察を含みますので、まだ鑑賞していない方はご注意ください。
映画「シャイアン」あらすじ
1877年、アメリカ政府に降伏したシャイアン族は、故郷のワイオミングから遠く離れたオクラホマの保留地へと移送されました。
しかし政府はその保留地にシャイアン族を養うだけの食糧も医療も提供せず、約束はことごとく破られ続けました。
もともと1000人以上いたシャイアン族は、疾病と飢餓により次々と命を落としていきます。
政府の援助を1年間待ち続けながらも何も届かない中、生き残った250人あまりのシャイアンたちは、ついに決断を下します——故郷ワイオミングへ向けて、1500マイル(約2400キロ)の長い旅を自分たちの足で歩いて帰ること、です。
この一行に自ら寄り添ったのが、クエーカー教徒の女性教師デボラ・ライト(キャロル・ベイカー)です。
彼女はシャイアンの子供たちに学問を教えていた優しい女性で、保留地に残ることを勧める婚約者の言葉を断り、彼らとともに歩む道を選びます。
一方、アメリカ陸軍はシャイアン族を追いかけて保留地に連れ戻すよう、トーマス・アーチャー大尉(リチャード・ウィドマーク)に命令を下しました。
しかしアーチャーはシャイアン族への同情を隠しきれず、この任務に深い葛藤を抱えながら追跡を続けます。
逃げるシャイアン、追う騎兵隊、そして感情的な若き勇士レッド・シャツ(サル・ミネオ)の衝動的な行動——さらにはセンセーショナルな報道で世論を煽るマスコミ——これらが複雑に絡み合いながら、1500マイルの壮絶な旅が始まります。
本作はジョン・フォードが手がけた最後の西部劇であり、フォード自身が「私はカスターやシビントンより多くのインディアンを映画の中で殺してきた。今こそ彼らの側の話を見せたかった」と語った、生涯をかけた「詫び状」とも言える作品です。
映画「シャイアン」ネタバレ
以下、重大なネタバレを含みます。
「野蛮人」は誰なのか
旅の途中、レッド・シャツの衝動的な行動が軍との小競り合いを引き起こします。
こうした出来事はマスコミによって「凶暴なインディアンの暴走」として大げさに報道され、「シャイアンを叩き潰せ」という世論が形成されていきます。
しかし映画が映し出す現実は、まったく逆です。
飢えと寒さの中で1500マイルを歩く老人・女性・子供たちのシャイアン族と、それを馬に乗って追う武装した騎兵隊——どちらが「攻める側」でどちらが「逃げる側」かは、一目瞭然です。
フォードの意図は明確で、インディアンに向けられていたステレオタイプを一つ一つひっくり返し、白人社会の側が決して「聖人」ではないことを見せることにありました。
フォート・ロビンソンの悲劇
長旅の末、シャイアン族の一部はネブラスカ州のフォート・ロビンソン砦に保護されます。
しかしそこで待っていたのは安らぎではありませんでした。
冬の厳しい季節に、軍は降伏して収容されたシャイアン族を保留地へ強制送還する命令を下しました。
これは事実上の「死の行進」に等しい命令でした。
極寒の中を食糧もなく送り返されれば、多くの者が命を落とすことは明らかだったからです。
この命令を下す司令官ウェッセルズ(カール・マルデン)の「恐怖に見開かれた目」が、本作で最も忘れがたい場面のひとつです。
命令に従うことで人を殺してしまうという事実を、彼自身も理解していたのです。
異色の「ドッジシティ挿話」
物語の途中、映画は突然ドッジシティへ舞台を移し、ワイアット・アープ(ジェームズ・スチュワート)とドク・ホリデイ(アーサー・ケネディ)がシャイアン騒動に振り回されるコメディ的な場面が挿入されます。
この場面は本編の重苦しいトーンとまったく合わず、多くの批評家から「別の映画が間違って挟み込まれた」と評されましたが、一方で「緊張の中の息抜き」として意図されたものでもありました。
映画「シャイアン」ラスト最後の結末
フォート・ロビンソンでの圧迫に耐えかねたシャイアンたちは、ついに脱走を試みます。
雪の中を駆ける人々に対して騎兵隊が発砲し、多くの命が失われます。
しかし旅は続きます。
指導者のトール・ブル(リカルド・モンタルバン)やリトル・ウルフ(ギルバート・ローランド)に率いられたシャイアンたちは、倒れた仲間を悼みながらも歩き続けます。
ワシントンでは、内務長官シャーツ(エドワード・G・ロビンソン)がシャイアン族の実態を知り、彼らを故郷に帰すことを認める決断を下します。
彼の決断は、政府の中にも良心を持つ人間がいたことを示す、わずかな希望の光です。
そして長い旅の末、シャイアン族はついにワイオミングの故郷の大地へと辿り着きます。
それは「勝利」と呼ぶには代償が大きすぎる帰還でした。
旅の中で多くの命が失われ、仲間が散り散りになり、指導者たちも傷を負いました。
しかし彼らは確かに、約束された土地ではなく、自分たちの土地に帰り着いたのです。
デボラはアーチャーとともに、この長い旅の証人として立ち会います。
モニュメントバレーの荘厳な岩山を背景に、夕暮れの中でシャイアンたちが大地に足を踏み下ろす——その映像は、フォード西部劇の美しい「最後の章」として静かに幕を閉じます。
映画「シャイアン」の考察
本作は「名匠の晩年の失敗作」として語られることが多い映画です。
確かに上映時間は長く、中盤のドッジシティ挿話はテンポを崩します。
興行的にも振るいませんでした。
しかし私はこの映画を「失敗作」と呼ぶことに、強い違和感を覚えます。
なぜなら本作は、完璧な映画を目指した作品ではなく、「不完全な人間が、不完全な形でやっと絞り出した謝罪」という性格の映画だからです。
そしてその不完全さこそが、この映画を時代を超えた意味のある作品にしていると、私は考えます。
ジョン・フォードという「加害者」が作った「被害者の映画」
フォード自身の言葉——「私はカスターやシビントン将軍より多くのインディアンを映画の中で殺してきた」——は、告白であると同時に自己批判です。
フォードが西部劇で作り上げたイメージ——勇敢な白人騎兵隊と「野蛮な」インディアン——は、アメリカ人がネイティブ・アメリカンをどう見るかに、計り知れない影響を与えてきました。
映画というメディアの力は、時として政治や教育を超えて、人々の「常識」を形成します。
フォードは晩年、自分が作ってきたものの重さに気づいていたはずです。
だから本作を作りました。
しかし「加害者が被害者の映画を作る」ことには、根本的なジレンマが伴います。
シャイアン族を演じたのは、ラテン系の俳優たちでした。
撮影に使ったエキストラはナバホ族で、彼らが「シャイアン語」として語るセリフは実はナバホ語で、しかも内容は下品な冗談だったと伝えられています。
フォードは「インディアンの側を描きたい」と言いながら、その当事者たちを本当の意味では起用しなかったのです。
これは偽善でしょうか。
私はそう断言することをためらいます。
なぜなら「完璧な謝罪」を待っていたら、謝罪は一生できないからです。
不完全であっても、方向を変えようとした意志は本物でした。
そしてその不完全さ自体が、「加害者がいかに被害者の視点を本当には持てないか」という現実を、図らずも証明しているのです。
「約束を破る」という行為の本当の怖さ
本作で繰り返し描かれるのは、アメリカ政府がシャイアン族との約束を次々と破る姿です。
フォート・ラーミーで待てば食糧が届くと言われ、待つ。届かない。ワシントンに訴えれば聞いてもらえると言われ、訴える。聞いてもらえない——この繰り返しが、静かな怒りとともに積み上がっていきます。
しかしここで考えてみたいのは、なぜ彼らは何度も約束を信じたのか、という点です。
一度破られた約束を、なぜまた信じるのか。
それは「信じることをやめると、もう生きていけないから」です。
荒野の中で250人が生き延びるためには、何かを信じる力が必要です。
その「信じる力」を、政府は何度も踏みにじってきました。
約束を破ることの本当の罪は、物資を届けなかったことではなく、「信じる力」そのものを傷つけたことにあります。
これは1878年のシャイアン族だけの話ではありません。
国家が個人に、組織が構成員に、約束を繰り返し破り続けるとき、最終的に壊れるのは信頼という、人間が社会を作る上で最も基本的なものです。
本作が現代にも通じる理由は、まさにここにあります。
アーチャー大尉という「普通の人間の限界」
本作の主人公は、シャイアン族ではなくアーチャー大尉です。
彼は「良い人間」です。
シャイアン族に同情し、不当な扱いに心を痛め、できる範囲でデボラとシャイアンたちを助けようとします。
しかし彼は最後まで「追う側」の人間です。
命令に従い、騎兵隊として行動し続けます。
これは「悪い人間」の話ではありません。
「良い人間が、悪いシステムの中で働き続けるとき何が起きるか」という話です。
アーチャーは一人の人間としての良心を持ちながら、組織の一員として行動することの矛盾の中で、ずっと苦しみ続けます。
現代社会でも、この苦しみを抱えている人は多くいます。
会社の方針に納得はできないが、仕事だから従う。
政府の政策に疑問はあるが、自分一人では変えられない——アーチャーの葛藤は、私たちの日常の中にある葛藤と、驚くほど重なります。
フォードが最後に選んだ「夕暮れ」という色
本作の最後は、モニュメントバレーを舞台にした夕暮れの場面で幕を閉じます。
それはフォードが何十本もの西部劇で繰り返し使ってきた、馴染みの風景です。
しかし今回の夕暮れは、それまでの映画の夕暮れとはまったく違う意味を持っています。
かつてのフォード西部劇では、夕暮れは「英雄の凱旋」の背景でした。
白人の主人公が勝利し、旅立ち、夕日の中に消えていく——それが「終わり」の合図でした。
しかし「シャイアン」の夕暮れは、「敗者の帰還」の背景です。
多くを失いながら、それでも故郷に辿り着いた人々の後ろに沈む夕日——それはフォードが自分のキャリアを通じて作り上げてきた「勝利の美学」への、静かな自己批判とも読めます。
「シャイアン」という映画は、ジョン・フォードが自分自身に向けて作った映画だったのかもしれません。
長い旅の末にようやく「間違っていた」と言えた男の、夕暮れの中の独白として。
結論:「遅すぎた謝罪」にも意味はある
本作が公開されたとき、シャイアン族をはじめとするネイティブ・アメリカンの人々の状況は、まだほとんど改善されていませんでした。
フォードの「謝罪」は、現実を何も変えませんでした。
それでも、この映画は作られました。
不完全で、中途半端で、本来ならば当事者に語ってもらうべき話を、外側の人間が語った映画——それでも、「向きを変えようとした」という事実は残ります。
「シャイアン」はフォードにとっての「失いつつある何かへの哀歌(エレジー)」でした。
それはシャイアン族への哀歌であり、モニュメントバレーへの哀歌であり、そして自分自身が作り続けてきた「西部劇神話」への哀歌でもありました。
遅すぎた謝罪に意味はあるのか——本作はその問いに、映像でこう答えているように見えます。
「意味はある。ただし、謝る側の話ではなく、謝られた側がどう受け取るかによって、その意味は決まる」と。
シャイアンの人々は1500マイルを歩きました。
その足跡の一つ一つが、約束を信じ続けた証でした。
その事実は、誰に謝られようとも、誰に謝られなかろうとも、消えることなく大地に刻まれています。
評価:★★★★☆(4.0/5.0)
「西部劇の神様が、自分の作ってきたものに向けた最後の問い——不完全な謝罪でさえ、しないよりはるかに尊い。」
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