映画「ある日どこかで」ネタバレ!ラスト最後の結末とその考察

ラブストーリー

映画「ある日どこかで」は1980年、ジャンノ・スゥワーク監督、クリストファー・リーブ主演の作品です。

この「ある日どこかで」のネタバレやあらすじ、最後ラストの結末とその考察について紹介します。

以下、重大なネタバレや個人的な考察を含みますので、まだ鑑賞していない方はご注意ください。

 

映画「ある日どこかで」あらすじ

1972年、イリノイ州シカゴ。
演劇科の学生リチャード・コリア(クリストファー・リーブ)が劇の初演を終えた夜、一人の老婆が楽屋に現れました。

小さく縮んで白髪になった老女は、リチャードの手に古い懐中時計を握らせ、ひと言だけ言いました——「戻ってきて(Come back to me)」と。

それだけ言って、老女は消えていきました。

誰かの祖母が間違えて来たのか。リチャードにはその意味がわかりませんでした。

8年後、1980年。
劇作家として行き詰まりを感じていたリチャードは、ひとりでグランドホテルに向かいます。

ミシガン湖畔に建つ歴史的なリゾートホテルで、ゆっくり休もうという気持ちでした。

しかしホテルのロビーに飾られた一枚の写真に、リチャードは釘付けになります。

1912年に撮影されたという古いモノクロ写真の中に、息を呑むほど美しい女性が写っていました。

「エリーズ・マッケナ。当代随一の舞台女優。1912年グランドホテルに滞在」というキャプションとともに。

リチャードは激しく揺さぶられました——「この人を知っている」というわけでも、会ったことがあるわけでもない。しかしその顔を見た瞬間から、もうそれ以外のことが考えられなくなりました。

調べていくうちに、リチャードは「タイムトラベルは可能だ」という自己催眠理論を唱えた学者の研究と出会います。

「現在から意識を完全に切り離し、過去の時代に没入すれば、肉体ごとそこへ移動できる」という理論でした。

リチャードは1912年のホテルの部屋を借り、当時の服を揃え、当時のコインを集め、現在のものを一切排除して——エリーズのいる1912年へと意識を送ります。

 

映画「ある日どこかで」ネタバレ

以下、重大なネタバレを含みます。

1912年の世界

意識が沈んでいく感覚の後、リチャードは目を覚まします。

部屋は変わっていない。しかしドアを開けると——廊下の様子が違う。窓から見える景色が違う。そして外から聞こえてくる馬車の音。

リチャードは1912年に来ていました。

当然ながら、誰もリチャードを知りません。

しかしエリーズ・マッケナ(ジェーン・シーモア)のマネージャー、アーサー・ベイカーが彼の行く手を阻みます。

「エリーズに近づくな。彼女の仕事に差し支える」と。

しかしリチャードとエリーズは、ホテルの芝生で目が合います。

エリーズはリチャードを見た瞬間に、何か強いものを感じます。

「前に会ったことがあるような気がする」——会ったはずのない二人に、しかし最初から何か深い繋がりがあるように見えます。

運命的な愛の日々

二人は少しずつ距離を縮めていきます。

アーサーの妨害をかいくぐり、ボートに乗り、ピクニックをし、月明かりの中を歩きます。

エリーズはリチャードに言います——「あなたは特別な人だと思う。でも何かを隠している気がする」と。

リチャードは「過去」を隠していました——自分が1980年から来た人間だという事実を。

しかし隠しながらも、二人の間に生まれたものは本物でした。

「愛している」という言葉より先に、ただ一緒にいることが「答え」になっていく時間——その儚さと美しさが、映画の中心を占めています。

「1セント硬貨」という悪夢

幸福な時間の中で、リチャードはジャケットのポケットに手を入れた瞬間、凍りつきます。

1912年のコインではない。1980年代の1セント硬貨が、ポケットの中に残っていたのです。

現在のものを見た瞬間、自己催眠の「没入」が解けてしまいます——これが理論の弱点でした。

リチャードの意識は強制的に現在へと引き戻され、1912年から消え失せます。

 

映画「ある日どこかで」ラスト最後の結末

現代に戻ったリチャードは、打ちひしがれます。

もう一度1912年に戻ろうとしますが、できません。

エリーズへの思いを持ちながら現在に戻ってしまった——「現在を完全に手放せない自分」がいる限り、あの時代には戻れないのです。

リチャードは食事を断り、水も断り、ただエリーズのことだけを思い続けます。

やがてリチャードは、ベッドの上で静かに息絶えます。

しかしラストシーンは——光の中に輝く場所。
そこにエリーズがいます。リチャードが彼女のもとへ歩いていきます。二人は再び出会います。

死の向こう側で、二人は永遠に一緒にいます。

そして物語の最初にあった「謎」が解けます——1980年の劇の夜、リチャードの楽屋に現れた老婆。彼女が「戻ってきて」と言いながら古い懐中時計を渡した。

あの老婆はエリーズでした。

1912年にリチャードが突然消えた後、エリーズはずっとリチャードを待ち続け、老いて、それでも「あの人は必ず来る」と信じ続けた。

そして1972年、老いたエリーズが若きリチャードに会いに行き——自分がかつてリチャードに贈った懐中時計を、リチャードに渡した。

懐中時計はリチャードからエリーズへ、エリーズからリチャードへ——時間の輪の中を、誰が最初に渡したかわからないまま、循環していました。

 

映画「ある日どこかで」の考察

この映画について「美しいロマンス映画」として語ることは正確ですが、最も面白い部分を取り逃してしまいます。

「ある日どこかで」が本当に問いかけているのは「この愛は誰が始めたのか」という問いであり、その答えが「誰でもない——最初から存在していた」という、時間と愛の本質についての最も深い謎です。

「懐中時計の謎」が映画全体の哲学を体現していた

映画のタイムライン上、こういうことが起きています。

リチャードは1980年に老いたエリーズから懐中時計をもらいます。

リチャードはその時計を持って1912年に行きます。

1912年でリチャードはエリーズに時計を贈ります。

エリーズは時計を持って年老いていき、1972年にリチャードに返します。

つまりこの懐中時計は「誰も最初に作ったわけではない」のです。

リチャードがエリーズに渡したが、その時計はエリーズからリチャードにもらったもの——どこにも「最初」がありません。

哲学的にはこれを「因果律の矛盾(タイムパラドックス)」と呼びます。

しかしこの映画においては、そのパラドックスが「愛の本質の比喩」として機能しています。

「あなたが先に愛したのか、それとも私が先に愛したのか」——本当に深い愛においては、この問いに答えが出ないことがあります。

「気づいたらそこにあった」「最初からそうだった」という感覚——それが「ある日どこかで」の懐中時計が体現していることです。

「エリーズが老婆になっても待ち続けた」という事実の重さ

映画のラストで明かされる真実——老いたエリーズが1972年のリチャードに会いに行く——この場面を、多くの人が「感動的なサプライズ」として受け取ります。

しかし立ち止まって考えてみてください。

エリーズは1912年にリチャードが突然消えた後、「彼はまた来る」と信じ続けました。しかしどこにも約束はありません。

リチャードは「必ず戻る」と言っていなかった——突然消えただけです。それでもエリーズは、60年近くの人生を「あの人への思い」とともに生きました。

「待つ」ということの本当の意味がここにあります。

「いつか来るとわかっていて待つ」のは「待つ」ではありません。「来るかどうかわからない、しかし信じて待つ」——これが本物の「待つこと」の形です。

エリーズが老婆になってリチャードに時計を渡す場面——「戻ってきて」という言葉——あれはリクエストではなかったのかもしれません。

「あなたはいつか来てくれる。私はそれを知っている」という、確信の告白だったのではないでしょうか。

「1セント硬貨」が示す「現在と切れない限り、過去には行けない」という真実

リチャードがポケットの中の現代のコインを発見した瞬間——これはタイムトラベルの理論的な失敗として描かれていますが、私はここに「愛の哲学」が込められていると読みます。

「現在のものをすべて手放して初めて、過去に行ける」——この映画の設定は、恋愛における「全力で向き合うこと」の比喩として読めます。

「何かを守りながら、何かに完全に向き合うことはできない」——現代のコインを持っていた=現在への執着を完全には手放せていなかったリチャードは、それゆえに失敗しました。

そしてエリーズを失った後に「もう一度行こう」としても、今度は「エリーズへの思い」という「現在」があるために、また完全には没入できない。

愛を失った後に「あの頃に戻りたい」と思っても、戻れないのは「現在の喪失感」という感情が邪魔をするから——これは多くの人が体験する感覚であり、映画はその感覚を「タイムトラベルの失敗」という形で可視化しています。

「クリストファー・リーブ」がこの役を演じた意味

この映画は1980年公開——クリストファー・リーブが「スーパーマン」で世界的に有名になった直後の作品です。

「スーパーマン」の彼は、圧倒的な力を持ち、どんな危機も解決できるヒーローでした。しかし「ある日どこかで」のリチャードは——腕力でも知恵でも、何も解決できません。

1セント硬貨一枚で、愛する人のもとから引き離されてしまう。

「世界最強のヒーローを演じた俳優が、コイン一枚に敗れた」——この配役の逆説が、映画のテーマを強調します。

愛の前では、スーパーマンの力も無力だ、と。

さらに悲しい事実があります。クリストファー・リーブは1995年に落馬事故で脊髄を損傷し、全身麻痺の状態で10年間を生きました。

「スーパーマン」が「動けない体」という最も非スーパーマン的な状況に置かれた——しかし彼はその状況の中でも研究と啓発活動を続けました。

「ある日どこかで」でリチャードが「食事を断って死を選んだ」という結末は、クリストファー・リーブの人生と重ねると、全く違う重さを持ちます。

「愛するものを失った後、身体的には生きているが魂の意味では死んでいた」という状態——それが最後の「食事を断う」というリチャードの行為として描かれています。

「時代を超えた愛」という設定が持つ「不可能性の美学」

なぜ「過去に恋する」というテーマが、人の心を打つのでしょうか。

「過去の人と恋をすること」は、定義上「成就しない愛」です。

過去には戻れない。未来に連れてくることもできない。永遠に手の届かない場所にいる人を愛する——これは愛における「完全な不可能性」です。

しかし「完全に不可能だから美しい」という感覚が、人間にはあります。

「手に入らないものへの憧れが、人間の美意識の根本にある」——「ある日どこかで」はその感覚を「タイムトラベル」という形で体現しました。

私たちは誰しも、過去に置いてきたものを時々思います。

「あの頃に戻れたら」「あの時に言えていたら」——しかしその「戻れない感覚」こそが、過去の記憶を宝物にしているとも言えます。

手に入れられたものは当然のものになっていく。

手に入れられなかったものだけが、永遠に輝き続ける。

結論:「ある日どこかで」は「時間を超えた愛」の映画ではなく「愛が時間を超えさせる」映画だった

タイトルを英語で読むと「Somewhere in Time(時間のどこかに)」——「ある日どこかで」という邦題より、少し違う意味を持ちます。

「時間のどこかに」——過去でも未来でも現在でもない、「どこかに」存在する時間の中に、この愛はある。

リチャードとエリーズの愛は「1912年」という特定の時代の話ではなく、「時間の外にある何か」として描かれています。

だから懐中時計に始まりも終わりもなく、「誰が先に愛したか」にも答えがない。

「愛は時間を超える」とよく言います。しかしこの映画が言っているのはそれではなく——「愛があれば時間など最初から意味をなさない」ということではないでしょうか。

エリーズが60年間待ち続けられたのは、彼女の中でリチャードとの時間が「過去のもの」になっていなかったから——「今もそこにある」という感覚を持ち続けていたから。

「ある日どこかで(Somewhere in Time)」——その「どこか」は過去でも未来でもなく、「愛している、という感覚の中」にあるのかもしれません。

 
評価:★★★★★(5.0/5.0)
「懐中時計は誰が最初に渡したのか——この問いへの答えがないことが、この映画の最も深い答えだ。本物の愛に『最初』はない。気づいた時にはもう、そこにあるのだから。」

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