映画「去り行く男」は1956年、デルマー・デイヴィス監督、グレン・フォード主演の作品です。
この「去り行く男」のネタバレやあらすじ、最後ラストの結末とその考察について紹介します。
以下、重大なネタバレや個人的な考察を含みますので、まだ鑑賞していない方はご注意ください。
映画「去り行く男」あらすじ
ワイオミング州、ロッキー山脈のふもと。
崖から転落し、馬も失って荒野に倒れていた一人のカウボーイ——それがジューバル・トゥループ(グレン・フォード)です。
彼は通りかかった牧場主シェップ・ホーガン(アーネスト・ボーグナイン)に命を救われ、その牧場で働くことになります。
シェップは大柄で豪快、見た目は野暮ったいけれど、底抜けに気のいい人物です。
ジューバルの腕を高く買った彼は、すぐに彼を牧童頭に抜擢します。
しかしこれが、大きな問題の火種となります。
シェップの若くて美しい妻メイ(ヴァレリー・フレンチ)は、夫への愛情もなく退屈な毎日を送っており、牧童のピンキー(ロッド・スタイガー)と密かに関係を持っていました。
そのピンキーはジューバルの登場によって牧童頭の地位を奪われ、激しい嫉妬に燃えていました。
さらにメイはジューバルにも目を向け始めます。
ジューバルはメイの誘いをきっぱりと断ります——命の恩人であるシェップを裏切ることなど、できないからです。
しかし穏やかな日常は、ピンキーの悪意ある策略によって少しずつ崩れていきます。
そこへ追い打ちをかけるように、「ローハイダーズ」と呼ばれる信仰深い旅人の一団が牧場に野営を求めてやって来ます。
牧童たちが追い払おうとする中、病人がいると知ったジューバルは彼らの滞在を許可します。
その一団のリーダーの娘ナオミ(フェリシア・ファー)——清らかで誠実なこの女性に、ジューバルは静かに惹かれていきます。
牧場主の妻に狙われ、嫉妬に燃える同僚に憎まれ、初めて心が動いた女性と出会う——流れ者のジューバルは、ただ静かに立ち去ろうとしていたのに、嵐の中心に立たされていきます。
映画「去り行く男」ネタバレ
以下、重大なネタバレを含みます。
ピンキーの「イアーゴ作戦」
本作はシェイクスピアの悲劇「オセロー」を西部劇の世界に置き換えた作品です。
シェップが「オセロー」、ジューバルが「キャシオー」、そしてピンキーが「イアーゴ」に相当します。
ピンキーは直接手を汚さず、じわじわと嘘を積み重ねてシェップの疑心暗鬼を育てていきます。
ある夜、野営中のシェップにピンキーが耳打ちします——「ジューバルがメイのそばにいる」と。
一方ジューバルは、メイの「手紙が届いた」という口実に騙されて夜道の送り迎えを頼まれただけでした。
帰宅したシェップはうとうとしながら「ジューバル……」とつぶやいたメイの言葉を聞いてしまい、疑惑が一気に燃え上がります。
シェップの誤解と悲劇
怒り狂ったシェップは酒場でジューバルに発砲します。
ジューバルはやむなく反撃し——命の恩人のシェップを、自らの手で死なせてしまいます。
これがこの映画で最も胸が痛む場面です。
正しいことをしようとしていた男が、最も守りたかった人を傷つけてしまう。
ジューバルは傷を負いながら、ナオミの一団にかくまわれます。
ピンキーのどん底
シェップを陥れることに成功したピンキーは今度はメイに迫りますが、激しく拒絶されると彼女を重傷を負わせるまで打ち据えてしまいます。
そして町の人々に「ジューバルがシェップを殺した」と吹聴し、追跡隊を組織してジューバルを追い始めます。
大義名分のある憎しみを使って群衆を動かす——ピンキーの悪意は、誰かの怒りに乗っかることで増幅されていきます。
チャールズ・ブロンソンという「もう一人の男
本作には若きチャールズ・ブロンソンが「レブ」という流れ者のカウボーイとして登場します。
彼はジューバルと似た境遇の、口数少ないが信頼できる男です。
ジューバルが危機に陥ったとき、彼はそっと傍らに寄り添い、逃げ道を作ります。
「守る」という言葉を言わずに守る——後年のブロンソンのトレードマークになるクールな佇まいが、すでにここに芽生えています。
映画「去り行く男」ラスト最後の結末
重傷を負ったメイは死の直前に真実を告白します——「ジューバルは何もしていない。すべてピンキーの嘘だ」と。
追跡隊は真実を知り、向きを変えてピンキーを取り囲みます。
ピンキーを待っているのはリンチの縄——それは彼が自分でジューバルに仕掛けようとしていた運命でした。
ジューバルはナオミとレブとともに馬を走らせ、新しい土地へと向かいます。
「平和の待つ場所へ」——それがどこにあるのかは語られません。
ただジューバルは、またどこかへ向かって去っていきます。
ロトマト批評家スコア100%という高評価を誇りながら、長年ほとんど語られなかったこの映画の結末は、西部の大空のように広く、何も語らないまま地平線の向こうへ消えていきます。
映画「去り行く男」の考察
本作が「オセローの西部劇版」と評されていることは、映画を見た人なら誰でも気づきます。
しかし私が本当に面白いと思うのは、その先にある問いです——「なぜシェイクスピアは400年たっても西部に生き続けているのか」。
「嫉妬」はどの時代にも、最も普通の感情だった
ピンキーがジューバルを憎んだ理由は単純明快です。
「自分の方が先にいたのに、後から来たやつに抜かれた」——これだけです。
これは1956年の西部劇の話でしょうか?
いいえ。今この瞬間も、どこかの職場で、どこかの学校で、どこかの家族の中で、まったく同じことが起きています。
後から来た新人が自分より評価される。
気に入っていた人が自分ではなく他の誰かを選ぶ。——その瞬間に生まれる「どうして自分じゃないんだ」という感情を、シェイクスピアは400年前に「イアーゴ」という人物で描きました。
そしてデルマー・デイヴィスは1956年に「ピンキー」という人物で描きました。
「嫉妬は時代も場所も選ばない——それが人間の最も普通で、最も危険な感情だ」と、この映画は静かに宣言しています。
「正しい人間」が最も損をする構造
ジューバルは映画を通して、何一つ間違ったことをしていません。
メイの誘いを断る。シェップへの忠義を守る。病人の旅人たちを助ける。去り際を弁えようとする。
それでも彼は殺人者として追われ、傷を負い、命の恩人を死なせてしまいます。
「正直者が馬鹿を見る」——この理不尽は、オセローの時代にも、西部開拓時代にも、そして今この社会にも等しく存在しています。
ここで面白いのは、ジューバルが「正しいこと」への信念を捨てないことです。
追われている最中でも、旅人たちを助けようとします。
ピンキーへの復讐を考えるより、メイに真実を語ってもらおうとします。
「損をしてでも正しくある男」——それがジューバルというキャラクターの最大の魅力であり、同時に最大の弱点でもあります。
「去り行く男」というタイトルの、本当の意味
この映画の邦題は「去り行く男」です。
しかし映画を見終わった後、「去り行く男」という言葉が全然違う意味に聞こえてきます。
ジューバルは最初から「去ろう」としていました。
シェップが手放してくれさえすれば、もっと早くに去っていたはずでした。
問題が複雑になる前に去ろうとした。しかし行く先々で「引き止められた」のです。
これは偶然ではありません。
「本当に立ち去れる男は、誰も引き止めない男だ。ジューバルが引き止められたのは、彼が引き止めるだけの価値を持っていたからだ」——この逆説が、このタイトルの最も深い意味です。
「去り行く男」とは、去ろうとしながら、去れない男のことです。
それはつまり、誰かにとって「なくてはならない人間」になってしまっているということです。
お人好し」と「賢い人間」はどちらが生き残るか
シェップはお人好しの塊でした。
初対面の行き倒れを拾い、仕事を与え、信頼し、昇進させました。
そしてその信頼が嘘の一言で一瞬で壊れ、あっけなく命を落とします。
ピンキーは抜け目のない計算家でした。
嘘を積み重ね、人の怒りを利用し、自分は手を汚さずに目的を達しようとしました。
しかし最後には群衆に囲まれ、自分がジューバルに仕掛けようとした罠に自らはまっていきます。
どちらも「うまくいかなかった」わけです。
「お人好しも、策略家も、どちらも最後は自分の性格に足をすくわれる」——この映画はそう言っています。
では生き残るのは誰か——ジューバルです。
彼はお人好しでも策略家でもなく、「正直に、しかし用心深く」生きる男です。
「信義を守るが、巻き込まれすぎないよう立ち去る判断力を持つ」——そのバランスが、荒野を生き延びる知恵でした。
結論:400年前の舞台劇が西部劇に変わっても変わらないもの
クライテリオン・コレクション(映画の殿堂とも言えるレーベル)がブルーレイ化し、ロトマト批評スコア100%を誇るにもかかわらず、本作は長年「忘れられた傑作」として静かに眠っていました。
しかし今この映画を見ると、驚くほど「現代的」です。
嫉妬で人を陥れる人間、善意を利用される人間、誤解で人間関係が壊れる様子——スマートフォンもSNSもない西部の荒野で起きていることが、現代の職場やコミュニティでそのまま起きています。
シェイクスピアが「オセロー」を書いたのは、人間の本質が普遍的だと知っていたからです。
デルマー・デイヴィスがそれを西部劇に置き換えたのも、人間の本質が時代や場所を選ばないと知っていたからです。
そして私たちが今この映画を見て「これは今の話だ」と感じるとしたら、それもまた同じ理由です。
人間は400年たっても同じ失敗を繰り返す生き物です。
しかし同時に、ジューバルのような「正直であり続ける男」も、400年たっても同じように生まれ続けます。
その両方が本物であることが、人間の面白さでもあります。
荒野はいつも、去り行く男の背中を見送ってきたのです。
評価:★★★★☆(4.0/5.0)
「嫉妬は時代も場所も選ばない——シェイクスピアが書き、西部劇が再現し、そして今日の私たちが目撃するこの普遍的な真実を、ジューバルという男の背中が静かに教えてくれる。」
みんなの感想